パスツールVSコッホ(その2~日本酒と納豆)


武田佐吉(1867年~1955年)

1866年にパスツールがワインやビールの腐敗防止に確立した低温殺菌法。

実はその500年前の日本で、すでにお酒の発酵を止める方法(火入れ)として実践されていたことを示す文献があります。

室町時代の醸造技術書『御酒之日記』に、火入れについて記載があり、平安末期から畿内地方では行われていたようです。


火入れは、日本酒に限らず醤油なども行いますが、発酵に使った酵母や酵素を止め、風味を損なわずに味の変化を防ぐ効果があります。

特に日本酒は、乳酸菌の一種が活動を続けると、白濁したり酸味が出ることもあるため、加熱して失活させる必要があります。

しかし温度計もタイマーなく、薪で火加減を調整しながら、どうやって適温を見極めていたのでしょうか?

香りやかき混ぜた時のとろみで判断していたようですが、現在その技術を検証すると62℃~68℃だったという結果でした。

一般に乳酸菌類は65℃23秒で失活しますので、この温度帯は絶妙だったわけです。

時代が変わっても、職人さんのスゴさは変わりません。


一方、日本の発酵食品を代表する納豆。

これは平安時代、偶然の発見から生まれたとされていますが、明治時代まで、味噌と同じように家庭で作るものでした。


しかし、大豆を包む稲わらについている自然の納豆菌頼りだったため、大腸菌を始めとする他の菌バランスや発酵温度によって、上手く発酵しないことがよくありました。

ところが1905年(明治38年)、コッホが確立した細菌類の純粋培養技術を使い、東京帝国大学・農学博士 沢村 真教授が、納豆菌の分離に成功しました。

これによって納豆菌は、バチルス・ナットー・サワムラと命名され枯草菌の一種に分類されます。


その前年、青森県の浪岡(現・青森市浪岡)でブドウ栽培をしていた武田佐吉は、納豆の製造・販売を始めました。

何故ブドウ栽培から、家庭で作るのが当たり前だった納豆を、商業生産しようと考えたのか、その行動には謎が多いのですが、昔ながらの稲わらに自生する納豆菌頼りの自然発酵法から始めました。


すると当たり前というか、予想通り、安定した生産は難しく、失敗の連続でした。


沢村教授が納豆菌の分離に成功してから10年以上、全国の大学でそれを純粋培養する研究が行われていたことでも分かるように、安定した発酵と美味しさを兼ね備えていることが必要な”食品としての納豆菌”を純粋培養するのは、簡単ではなかったことが分かります。




そして1919年(大正9年)、納豆製造に一つの転機が来ます。

それは北海道帝国大学の半沢 洵教授が、他の細菌類も付着する稲わらによる発酵でなく、経木や折箱で発酵させる方法を提唱したことです。

武田佐吉はその指摘に、興味を持ちましたが、彼はそれ以前の問題に頭を抱えていました。


納豆菌も他の細菌同様いくつもの”型”があり、型によって多少性質が違うことは分かっていました。

また”生き物”である以上、季節や気温によって”体調”が変わることも。

それらの差は大豆の発酵状態を左右し、ひいては味にも影響することに気づいていた数少ない人物でした。

彼は様々な型・環境に置いた納豆菌の性質を確かめるため、稲わらから納豆菌を取り、育てることを繰り返します。

彼の自宅の隣には蔵があったのですが、そこは使用済みの稲わらでいつも一杯だったそうです。



研究に行き詰った佐吉は、1925年(大正14年)盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)の村松 舜祐教授の元を訪ね、指導を受けます。

当時の貴重な写真が残っていますが、これは納豆作りをしていた工場内の空気中の常在菌を培地で観察した記録です。



・・シャーレ、ビーカー類とそれらの滅菌器具・顕微鏡・カメラ等、研究に必要な最低限の機材をザックリ思い浮かべても、決して少なくない予算が必要です。


地方の小さな納豆製造業者としては、今でも考えられないほどの研究レベルです。本来ならこの手の研究は、今も昔も大学の研究室が主体です。


今風の表現をすれば、”専用ラボ”を持っていたことになりますが、肝心の納豆作りは安定せず、大変な苦労だったと思います。

時間と共に菌が増殖していく様子が分かります

納豆製造を始めてから20年以上経った1925年(大正14年)。

ついに武田佐吉は、実用的な納豆菌の純粋培養に成功しました。

もちろん、民間の納豆業者としては初めてのことでした。



そして武田佐吉の研究に、途中から息子の信太郎が加わり、二人三脚での納豆作りが始まりました。

秋の八甲田


彼もまた、佐吉と同様、微生物の専門教育を受けたわけでもないのに、非常に広い知識と常識に囚われない斬新な発想力の持ち主でした。

1926年(昭和元年)大豆を蒸すための釜に、業界初の圧力釜を採用。

翌年には、雑菌混入がしにくい、今に続く衛生的な折箱での発酵製法を完成。

これによって、稲わらによる発酵の欠点の一つであった、外側の粒が乾燥しやすく、外側と中心部の発酵具合の差も、格段に減りました。

そして1928年(昭和3年)には、納豆菌を小瓶に入れ、全国の納豆業者に販売する営業も開始しました。

同時に、20年以上の苦労から得た経験で、ただ納豆菌を販売しただけでは、納豆作りが上手くいかないことは身にしみていました。



実際、その土地の気候や発酵室の管理によって、上手く発酵しないことは起こりました。

しかし納豆が上手くできない原因は納豆菌自体ではなく、発酵室の作りや温度管理に問題がありました。

佐吉も信太郎も、納豆菌を売った業者から相談を受けたり、苦情があった場合は、全国どこへでも出向き、丁寧に技術指導を行いました。




特に1935年頃(昭和10年)には、関東の多くの業者に納豆菌を販売。その際も、必ず現地を訪れ、特徴的な気候・環境を見て、必要な技術指導を惜しみませんでした。


1936年(昭和11年)に、むつ・大湊の軍医長だった海軍大佐 江口 有博士が、長崎県佐世保勤務時代の経験として

「納豆は赤痢の予防薬であり、納豆ほど効くものはない」

という談話が新聞記事になったことがきっかけで、ちょっとした納豆ブームが起きました。

それは数年続き、生産が追い付かないような時期もありましたが、1939年(昭和14年)になると、戦況が厳しくなり、大豆の販売が統制されます。

それでも、少ない食事の重要なタンパク源となり、赤痢やコレラなど、当時大変恐れられていた病気から守ってくれる納豆は、多くの人に求められ、可能な限り作り続けました。


そして1945年(昭和20年)8月15日終戦。


終戦間近だった7月14日~15日には、青函連絡船12艘が爆撃に合い、青森市内は7月28日~29日にかけて大空襲を受けました。

八戸市内に至っては、終戦目前の8月9日~10日両日に渡り壮絶な空襲を受け、県内で多くの犠牲者を出しました。

佐吉・信太郎一家は、何とか難を逃れましたが、青森市内は焼野原になりました。


その年の12月。

戦後の食糧難の中、信太郎は現在の農林水産省から、国民の健康向上を目指す共同研究を求められ、東京へ出張します。

農林省は、各家庭で納豆を作らせ、栄養不足の解消を図りたいと考えていたようですが、信太郎の復命書には、

『納豆作りは全国の各納豆業者に任せるべし』

と結論付けています。


それは決して、納豆業者を儲けさせる為のものではなく、温度管理や衛生管理の難しさを痛感していたことからの結論です。

また燃料も不足している中、大豆に十分な蒸煮が行われず消化不良を起こす危険なども考慮すると、一般家庭で作るのは、かえって復興の妨げになると考えました。


同時にこの復命書には、いくつか興味深い記述があります。

農林省食料管理局研究所 櫻井博士は、各家庭に冷蔵庫がなくても、長期保存できるものとして、乾燥納豆の可能性について言及していたようです。


しかし信太郎は、当時の熱乾燥機による加工を『納豆の本質を失う』とし、同時に『乾燥させるための設備・手間・燃料費を算出すると現実的ではない』と結論付けています。

(これは現在にも続く課題でして、未だ加工費がかなり高くつきます)

その上で、”冷凍納豆”の可能性に言及しています。



前年の1944年(昭和19年)5月に、冷凍した納豆を、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)の村松 舜祐教授に調べてもらっていて、この新たな可能性に自信を得ていた様子が伺えます。

冷凍納豆は、約1ヶ月冷凍した後も

『糸引きも味も良好で、納豆菌の効力は変わっていなかった』

と記載してあります。



この冷凍納豆の発想のヒントになったのは、近代納豆の製造に重要な”後熟成法”と呼ばれる技術でした。


発酵室から出した納豆を、冷蔵庫で急激に冷やして納豆菌の活動を抑える技術で、丁度お酒や醤油の”火入れ”と逆の発想ですが、現在全ての納豆業者が行っています。

これを生み出したのは、1940年(昭和15年)青森県三戸郡南部町で創業した太子食品の工藤栄次郎氏と二代目の工藤一男氏でした。

(続く)