飼い猫の最古の記録
遣唐使が経典をねずみから守るために一緒に船に乗せてきたと言われている猫。
そのかわいらしさと貴重さから、高貴な人々の間ですぐに人気になったようです。
その中でも、飼い猫の最も古い記録が平安時代に書かれた『宇多天皇御記』です。
これは第59代 宇多(うだ)天皇(867年6月10日~931年9月3日)が書いたもので、可愛がっていた黒猫の話が出てきます。
異例の経歴の天皇
宇多天皇は、光孝天皇の第七皇子として生まれながら、天皇としては異例の経歴を辿りました。
それは光孝天皇の先代 第57代 陽成天皇が不祥事で退位。
それで急に父である光孝天皇が即位したため、再び陽成天皇の家系に天皇家が戻らないよう、26人の皇子皇女が皇族から離脱させられました。(臣籍降下)
宇多天皇もその一人で、源氏性を賜り”源 定省(みなもと の さだみ)”として過ごしていました。
ところが父 光孝天皇は即位からわずか3年後、皇太子を決めないまま病気で重篤な状態になります。
天皇の嫡流に近い皇子もいたのですが、関白 藤原基経を中心に宮中の様々な人間の利害がぶつかり合い、源 定省に白羽の矢が立ちます。
そこで急遽呼び戻され、皇族に復帰。
翌日皇太子になりましたが、その日のうちに光孝天皇が崩御。
第59代天皇として即位することとなりました。
この異例の経歴が見聞を広めたのか、側近に当時主流だった藤原北家以外の藤原氏、源氏、菅原道真などを登用し、遣唐使の廃止、官庁の統廃合など政治・行政の改革を行いました。
一方で『日本三代実録』『類聚国史』の編纂の他、菊合わせ(菊の品評会)、歌合せ(和歌の勝ち抜き戦)などを盛んにした天皇でもあり、在原業平など多くの歌人を生み出すきっかけとなりました。
平安時代といえば、紫式部や清少納言といった女流作家の登場や貴族たちの優雅なイメージがありますが、まさにその時代を作った天皇とも言えます。
その宇多天皇が書き残した日記に、
「他の黒猫はぼんやりした灰黒色だが、私の猫は墨のようなくっきりした黒猫である」
的な猫自慢が出てきます。
政治・経済・文化と広く影響を与えた天皇の、極めて人間的な微笑ましい一面が伺えます。
外飼いを推奨したのはあの人
この時代の猫たちは、今風に言えばリードで繋がれ完全室内飼いだったようです。
貴重で天皇や貴族でしか飼えなかったからでしょう。
これは意外や江戸時代まで続き、
「畑や田んぼを害獣から守るため猫をリードで繋いじゃだめ」
というルールを始めたのは、徳川家康だと言われています。
黒猫は縁起が悪い?
ちなみに海外では
「黒猫は縁起が悪い」
「黒猫が横切ると良くないことが起きる」
というような説も見ますが、少なくとも日本ではそのような話はありません。
海外でもケルト神話では、黒猫が幸運のシンボルとして出てきます。
どうも海外で縁起悪い説があるのは、ローマ法王グレゴリオが敵対するケルト神話を貶めるために流した噂というのが有力です。
つまり迷信どころか、完全に政治的理由だったりします。
第59代 宇多天皇のその後
宇多天皇はお坊さんのような装束で描かれた肖像画が残っていますが、これは息子に譲位した後、東寺で修行し、真言宗の阿闍梨になり出家したためです。
世界遺産に登録されている 仁和寺を完成させた天皇でもあり、譲位したのは仏道に専念するため・・とか、藤原氏の政治から自由になるため・・と様々な説がありますが、本心を知っていたのは愛猫だけかもしれません。
出家後、仁和寺伽藍南西に僧房を建てて住み、崩御後は金堂の真北に御陵が設けられました。
天皇家に縁深い格式高い寺院として訪れた方は多いかもしれませんが、一人の愛猫家が晩年を過ごした場所として見ると違った印象になるかもしれません。
ちなみに意図的か偶然か、京都市バスで仁和寺を通るバスの系統ナンバーが『59番』だそうです。
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